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yurari V01

 

編集後記

以前から何らかのかたちで自分の表現の“場”が欲しいと思っていました。
個人的には、ブログというカタチで“場”らしきモノをいくつか持っています。しかし、訪問者の数に実感がともなわず、PC上では確かな手触りを感じ取ることができないまま、時が過ぎ去って行きました。
自分の中で何度も吹き出してきては、何度も頓挫したある企画。マガジンというには全てがあまりにもこぢんまりとしたものですが、今回は“yurari”という名で流産の憂き目にあわずに無事産声を上げることができました。今まで足りなかった何かがプラスされたのでしょう。発起人としての私がとりあえず(今回の)編集長ということでこのような文章を書いていますが、なんせ長というものにはまったく縁と言うものがなく、たまに調子にのるくらいで、何をどうしていいのかわからないまま、でもどうにかカタチになった以上、そのカタチに対する責任だけは長としての私が負う覚悟はできております。賛同者にして執筆者の面々とは、固い絆でむすばれた同志、という訳ではありません。ゆる〜い関係です。編集会議なるものも、たわごとと雑談で、気がつけば眼の前には缶ビールがあったり、見わたせば居場所が居酒屋にかわっていたりと“ゆらり”気分でした。でもそれだけでは決してカタチにはならなかったと思います。それぞれが抱える何かを『カタチにしたい!』という熱い思いがあったからこそ“カタチ”になったのだと思っております。こんなスタートなので、いつ空中分解するかわかりませんが、とりあえずはvol.1で終らせることだけは避けたいという“熱情”をたぎらせています。私個人としては何よりも誌面作りの愉しさを満喫できたことが最高の収穫でした。この美酒が味わえる限り続けることができそうな気もしています。広告に依存(営業力の問題はあるにしても)していないことにもある種のクリアさを感じています。
最後になりましたが、無理を承知の執筆依頼にもかかわらず快諾を頂き“Get back!!”という私たちを鼓舞し、勇気づける文を寄稿いただいた渡邊仁 氏に心より感謝申し上げます。本当にありがとうございました。

[編集長:三宅 敏夫]

yurari V02

 

編集後記

「yurari」創刊号は、ご祝儀替わりのお褒めのコトバも含まれていたものと思いますが、予想外に好評で、刷った部数はほとんどなくなりました。また、「うちにも置いていいよ」と声をかけてくださる方も多く、設置場所もかなり増えました。嬉しい限りです。

さて、今回の特集「波止場」はいかがでしたか? 「艀の記憶」は、私のHP「波止場通信」に掲載した「艀の時代」と「艀の風景」に、追加取材をした内容を加えて再編集したものです。貴重な写真や資料、情報等を提供していただいたカメラマンの松本岩雄氏、そして一般社団法人神戸港振興協会参与の森田潔氏の御二人には心よりお礼申し上げます。御二人の協力なしでは今回の記事作成は無理でした。

「HPに載せているのに、なぜ再編集の必要があったのか?」といぶかる方もおられるでしょうが、旧世代の人間には、インターネットは確かに便利だが、どこか信用できないのです。とくに、いまは消えた神戸港の風景を紙媒体に残しておかねばという焦燥感もあり、あえて「yurari」に掲載しようと決めました。

艀がメインになったため、「艀の現在」と「波止釣りは愉しくも哀し」以外、今の波止場を取り上げることができませんでした。それは次回の「波止場」特集のときの宿題にしたいと思います。

[編集長:竹内 明久]

yurari V03

 

編集後記

この度、編集長なるものを仰せつかった。何しろ編集というものに携わったこともなく、ひたすら食い意地を張らせていただけのカメラマンであるから、さて何をどう始めていいか分からない。 持ち回りとはいえ他の二人もこのような人間に編集長を任せるなど無謀なものだ。とりあえずwikipediaで編集長と検索してみる。なんと編集長という項目がないではないか。そのかわり編集者というのがあった。「いわば匿名性のなかで仕事をすすめていくのが、編集者の仕事の特質のひとつ」。なるほど、表に出るものではないのだ。他の検索では。「編集部で一番偉い人のこと。」なるほど、私が一番偉いのだ!これはいい。有無を言わせず意見を通してしまおう。そんな意見があるのなら、だが。今回の特集「BAR」はそんなの私のいいかげんさと、やぶれかぶれのうちに生まれた。編集長として原稿の催促などやってみたいことがあったのだが、一番原稿の遅かったのが私であり、そのため発行が遅れたのもすべて編集長たる私の責任である。全て編集長が責任をとる、という恰好いい役目も立派に果たし何事もなかったかのように本が出来上がった。編集長とはなんと楽な役割だろう。その分、あとの二人はどれだけ苦労したことか。感謝、感謝。 今回から連載を開始した坪谷令子さんの「旬産旬味」。坪谷さんはなんと私の小学時代の同級生。月に一度坪谷宅に集合して料理を作ってもらい、撮影が終わると酒盛りが始まる。一緒に楽しみ、お手伝いいただいた渡邊仁さん、最所久美子さん、久慎一さんにお礼を申し上げます。

[編集長:澤井 明]

yurari V04

 

編集後記

特集の企画者が編集長になるというルール変更ゆえに、今号の編集長になったものの、その私が、何と一番原稿を遅らせて迷惑をかけてしまいました。特集の「絶滅危惧風景」は、ユネスコの「絶滅危惧遺産」からアイデアを借りたものです。 世の中の変化が早過ぎて、ついこの前まであったお店が消えていることはよくあります。町から駄菓子屋さん、お風呂やさん、映画館、本屋さん、レコード屋さん(CDショップ)などが消えつつあり、駅前のラーメンやおでんの屋台も見かけなくなりました。また、外で缶蹴り、ビー玉、めんこ、ゴム跳び、かくれんぼなどをする子どもの姿も見なくなりました。アジア諸国を旅すると、いまもこうしたお店があったり、そして道は、商売をしたり、語らったり、食事をしたり、遊びに打ち興じる場であることを発見して羨ましくなります。道にこそ人生がある、と感じるのです。我々日本人は、何か大切なものを忘れているような気がしてなりません。

編集長:竹内明久

yurari V05

 

編集後記
 
戦後闇市の雰囲気をいまも色濃く残すモトコーの特集。何と言ってもオフィスがモトコーにあるから簡単だろうと思っていたが、いざ取りかかると意外と手強い。どこから攻めていいのか、切り口が見つからないのだ。昼でも暗いモトコーの闇の深さに改めてため息をつく。それでも何とか形にできたのは、取材に協力していただいた方々のおかげである。他の切り口もきっとあるはずだ。モトコー特集の第2弾をぜひとも実現させたい。

編集長:竹内明久

yurari V06

 

編集後記

 

我が国で最初にマッチを製造した清水誠。フランスの天体観測隊に同行し、日本人として初めて金星の日面通過の写真撮影に成功した人として知られている。1874年12月9日のことである。その場所がどこであったのかというと、なんと神戸市の諏訪山。現在その中腹の展望広場が金星台と呼ばれている所以だ。また、参考資料として借りた“マッチラベル博物館”の奥付をみて驚いた。著者は私と同じ大学で学んでいた。歳も一つ違い。小さな学校だったので何度もすれ違っていたかも知れない。

 

[編集長:三宅 敏夫

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